2019-03-11
一枚の写真が、今日メッセンジャーで届きました。
開くと、東京の友人から、私が描いた絵が写っている写真が貼付されていました。荒浜小学校と復興のために植えられた綿花の花を描いた水彩画です。小学校は津波で被害を受け、閉校になりました。そのエリアに植えられたのが、塩害に強いと言われているコットンです。
「荒浜出身の人の結婚祝いに描いてもらったコットンと小学校の絵、ちゃんと使ってくれてるみたいだよ^_^」と友人。そんな絵の注文をもらったり、被災地支援にボランティア入りした関西の方々に絵を買ってもらったり、、、そんな綱渡りで糊口をしのぐことができ、2011年は乗り切れたのです。
震災から8年目の311、響くメッセージと写真でした。
子規と歩いた宮城の連載,今日は第四回です。元となっている新聞連載依頼は震災前でしたが、スタートしたのは震災後。2011年春から河北新報夕刊に二週間に一回掲載されました。思い返せばこの仕事も、荒海にもまれ沈没寸前だった私どもの貴重な浮力のひとつでした。(本書ご希望の方は、ARTIOshopからどうぞ)
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『子規と歩いた宮城』から第4回 仙台・X橋付近
「増田迄一里の道を覚束なくも辿りつきて汽車仙台に入る。」(はて知らずの記より抜粋)
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〜月に寝ば 魂松島に 涼みせん〜 子規
明治二六年七月二七日、子規仙台到着。上野をたち八日目のことだ。
仙台にたどり着いた子規は、体力回復のため数日間滞在する。
冒頭の句は、憧れの松島を眼前に仙台の宿で詠んだ句だ。
病身を押しての旅だ。岩沼から愛島を徒歩で訪ね仙台へ。
この強行軍は彼の体力をごっそり奪い取った。
しかしそれでも心はすでに月下の松島に遊んでいた。
切ないまでの憧憬。そんな子規は仙台に何を見たのだろう。
仙台駅の北に、一本の高架橋がある。宮城野橋=通称X橋だ。
たもとには古びたれんが造りの隧道が残っている。
明治のころ高架は無く、必ずしも子規が見た風景とは一致しない。
けれど「仙台と子規」という歌枕で私の脳裏に浮かんだのはその隧道だった。
時の積み重ねは美しい。その美しさは暮らす人々の思いの地層だ。
X橋の隧道を見ると、そんな思いが胸に迫る。
子規の仙台滞在は、きっと名もない誰かの心に刻まれた。
そして仙台を形づくる「地層」の一部になっているに違いない。
(註・2019年現在、X橋の隧道はありません、数年前、新しい架橋にとってかわられました。)
絵のスケッチ場所は以下でした。