子規と歩いた宮城
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「松山って、たしか漱石の坊ちゃんの舞台だったはず…」東北に住む私にとって、正岡子規と出合うまで愛媛・松山は、そんな具合のはるか彼方の地でした。はじめて訪れたのは2012年のことです。
当時商工中金カレンダーのイラストを担当しており、その取材で松山を訪問したのが私にとっての初愛媛だったのです。そして2014年、画文集「子規と歩いた宮城」が完成した後でもあり、子規博物館にご縁いただいていた学芸員さんを訪ねたのでした。
訪れる地が遠ければ遠いほど、心に対話が生まれるのが不思議です。旅は人を「にわか哲学者」に変える力をもっているように思えます。もっともただの思いつきを「深い思索」と勘違いしてしまうのも、旅の非日常の為せる技ではあります。
愛媛出身である正岡子規の連載をしているこのタイミングで、愛媛の方から水彩画のオーダーをいただきました。ご住所を拝見しておもわず瀬戸内海の曙を思い出していました。トップ絵は愛媛訪問時に訪れた瀬戸内海の印象を描いた水彩画です。 これも不思議なご縁ですね。心からありがとうございます。愛媛松山への旅はまだ続いている。そんな気がしています。
さて、連載転載中の「子規と歩いた宮城」、今回は塩竈です。松島を訪れることが夢だった正岡子規は、仙台から塩竈に歩を進めました。(今回は、書籍のページ画像をそのままアップします。)
『子規と歩いた宮城』第6回 塩釜神社・1
汽車塩竈に達す。とりあへず塩竃神社へ詣づ。 〜「はて知らずの記」より抜粋
旅をしていると、ある場所で必ず同じことを思う。そこは駅だ。列車が駅につき、改札をくぐる。そして駅前の往来をながめこう思う。「とりあえず、どこへ向かおうか。」
「とりあえず宿を探す」「とりあえず食堂に入る」「とりあえず地図を広げる」…。たくさんの「とりあえず」があるけれど、この言葉は、はじめての地に降り立った旅人の心の渦を伝える言葉だ。
たとえそこが一級の観光地で、名の通った名所旧跡があったとしても、旅人の心はダイレクトにその地へはつながらない。少なくともわたしはそうだ。
駅を出た瞬間、町の空気、通りの往来から、どっ!と無数の情報が鉄砲水のように体を突き抜ける。そこで「とりあえず」カフェに入ったりするわけだ。要は「まずは、おちつけ…」と心に言い聞かせる旅のまじないだ。
子規にとって松島塩釜は憧れの地だ。その心に渦巻いた感情は計り知れない。「とりあへず塩釜神社へ詣づ」と記した子規。彼もまた「まずはおちつけ」と世の旅人と同じ感覚を抱いたと思うのだ。
(絵と文・古山拓)
年度末15日は、確定申告をしている個人事業者にとって、最大の節目のひとつ、です。今年もおかげさまで無事納税手続きが終わりました。いつもお世話になっている浅利会計事務所さんに感謝申し上げます。トップの絵は浅利会計事務所さんの応接室に嫁いでいるポルトガルロカ岬を描いた水彩画です。
ブログがそんな年度末の余波で一週間空いてしまいましたが、今日もブログ連載中の「子規と歩いた宮城」をアップします。みちのく旅をどうぞご一緒に。今回は仙台のつつじが岡公園付近です。
表題の絵の風景は,2012年、再開発の終わり近くの佇まいです。開発が済んだいまは、残念ながらありません。奥に延びる道は片側三車線の大きな通りになっています。
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『子規と歩いた宮城』第5回 仙台・榴岡
「兵隊の 行列白し 木下やみ」 子規
榴岡公園(宮城野区)。仙台に暮らす人なら一度は訪れたことがあるに違いない。子規も7月28日に立ち寄っている。「明日は必ず扶桑第一の山水に對せん」と記した翌日のことだ。
松島を「扶桑第一」(扶桑は日本の古称)と言い切るあたりに、子規の松島への思いがにじむ。彼は松島へ向かう途中、榴岡を古歌の名所と言いおよび、今の公園付近に遊んでいる。
表題の句から察するに、立ち寄った所は旧陸軍の兵舎だった歴史民俗資料館付近ではないかと思う。夏の強い日差しの下、隊列を組む兵の姿が脳裏に浮かぶ。
今回、私も榴岡では、旧兵舎と桜並木を描くつもりでいた。しかし現地で足が止まった場所は違っていた。公園の外縁だ。再開発で開けた二十人町のさら地越し、一軒の商店が消えゆく町の証人のように建つ。奥に広がる宮城野の丘。その曲線に子規の残像が重なった。
そうか、榴岡は「丘」だったんだ。今まで地名の意味を考えずに口にしていた自分を恥じた。と同時に、その丘陵地は、榴岡に遊ぶ子規の姿を記憶しているのではないか。そう思った。
(絵と文・古山拓)
一枚の写真が、今日メッセンジャーで届きました。
開くと、東京の友人から、私が描いた絵が写っている写真が貼付されていました。荒浜小学校と復興のために植えられた綿花の花を描いた水彩画です。小学校は津波で被害を受け、閉校になりました。そのエリアに植えられたのが、塩害に強いと言われているコットンです。
「荒浜出身の人の結婚祝いに描いてもらったコットンと小学校の絵、ちゃんと使ってくれてるみたいだよ^_^」と友人。そんな絵の注文をもらったり、被災地支援にボランティア入りした関西の方々に絵を買ってもらったり、、、そんな綱渡りで糊口をしのぐことができ、2011年は乗り切れたのです。
震災から8年目の311、響くメッセージと写真でした。
子規と歩いた宮城の連載,今日は第四回です。元となっている新聞連載依頼は震災前でしたが、スタートしたのは震災後。2011年春から河北新報夕刊に二週間に一回掲載されました。思い返せばこの仕事も、荒海にもまれ沈没寸前だった私どもの貴重な浮力のひとつでした。(本書ご希望の方は、ARTIOshopからどうぞ)
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『子規と歩いた宮城』から第4回 仙台・X橋付近
「増田迄一里の道を覚束なくも辿りつきて汽車仙台に入る。」(はて知らずの記より抜粋)
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〜月に寝ば 魂松島に 涼みせん〜 子規
明治二六年七月二七日、子規仙台到着。上野をたち八日目のことだ。
仙台にたどり着いた子規は、体力回復のため数日間滞在する。
冒頭の句は、憧れの松島を眼前に仙台の宿で詠んだ句だ。
病身を押しての旅だ。岩沼から愛島を徒歩で訪ね仙台へ。
この強行軍は彼の体力をごっそり奪い取った。
しかしそれでも心はすでに月下の松島に遊んでいた。
切ないまでの憧憬。そんな子規は仙台に何を見たのだろう。
仙台駅の北に、一本の高架橋がある。宮城野橋=通称X橋だ。
たもとには古びたれんが造りの隧道が残っている。
明治のころ高架は無く、必ずしも子規が見た風景とは一致しない。
けれど「仙台と子規」という歌枕で私の脳裏に浮かんだのはその隧道だった。
時の積み重ねは美しい。その美しさは暮らす人々の思いの地層だ。
X橋の隧道を見ると、そんな思いが胸に迫る。
子規の仙台滞在は、きっと名もない誰かの心に刻まれた。
そして仙台を形づくる「地層」の一部になっているに違いない。
(註・2019年現在、X橋の隧道はありません、数年前、新しい架橋にとってかわられました。)
絵のスケッチ場所は以下でした。
今日もブログ連載中の「子規と歩いた宮城」をアップします。みちのく旅をどうぞご一緒に。今回からマップも添えます。俳句をなさっているかた、子規に興味がある方、マップを元にぜひ現地へ行ってみてください。ちなみに文中の子規の句は、私が最も好きな句のひとつです。
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『子規と歩いた宮城』第3回
子規、西行との邂逅 -岩沼・愛島-
旅衣 ひとへに我を 護りたまへ 子規
愛島に実方中将ゆかりの道祖神社を詣でた子規は、墓所へと歩をすすめた。距離は神社からさほど遠くない。
街道筋から脇道にそれ、ほどなく墓はみつかった。標柱脇の一房のススキが目に涼しい。
子規の岩沼途中下車は、実方中将ゆかりの地を訪ねることにあったわけだが、墓所で西行の足跡と出会っている。
今も柵で囲われたその傍らには、西行の句が彫られた石碑が立つ。
苔むした表面を思わず指でなぞる。
子規から見つめられているような、くすぐったい感覚。
彼も、間違いなくここに立っていた。そう考えただけで、吹き抜ける風が百余年の歳月を払い去った。
実方中将が葬られた岩沼を、西行、芭蕉が、子規が訪れた。そして今、何の縁(えにし)かそこに立つ自分がいる。
「旅衣ひとへに我を護りたまへ」
子規は西行との邂逅で、切ないまでの旅人の心境をこの地に詠み上げた。
古今東西、人は不安を抱えながらそれでも旅を進めた。
それは何かに繋がり、どこかへ還るためだったのではないか。愛島風景を眺めながら、そう思った。
ブレイクタイム:以下、今日のエピソードです。
「プレゼントのための絵を仕上げる水彩プログラムをやっていただけませんか?」
東北大学に留学できている中国人女性ソンさんから、2時間でご自分でポストカードサイズの水彩画を仕上げたい、、、そんな相談を受けました。
アルティオでは水彩教室はやっています。けれども「贈り物にするための絵を仕上げるプログラム」は初めてです。
初めてだからやらない、なんて理由はありません。描きたいモチーフを聞き、よろこんでお引き受けしました。
今日はそのプログラムの日でしたが、無事2時間で完成まで辿り着きました。
「プレゼントのための絵を仕上げる水彩プログラム」をやってみて自分でも,普通の水彩教室には無い「教えるメソッド」に気づきました。
ソンさんから終了後にいただいた言葉は、「楽しかったです。ぜひこのプログラムをもっと広めて行ってください。」
なんとも嬉しい言葉でした。
今日は一日雨の仙台です。花粉症の方は 少しひと休み?できますでしょうか。
さて、マルセイユソープ新商品のご案内です。季節の変わり目に新しいソープで気分を変えてみてはいかがでしょう♪
☆フェール・シュヴァル/Marseille
1856年から160年間、大釜で伝統的手法によりマルセイユソープを作り続けています。フランス政府からも重要文化財の価値ある会社として認められています。余計なものは加えずお肌に優しい石鹸です。
今まで、よりシンプルに…と固形石鹸にこだわっていましたが、こちらは、より自然に近い石鹸作りをしているので、リキッドタイプも入れてみました。柔らかな洗い心地でおススメですよ。
☆ロタンティック/Provence
こちらは、アルティオオープン当初から大人気のマルセイユソープですが、この度ニューフェイスが加わりました。
プロバンスのオリーブオイルに植物成分配合。厳選された原料でお手頃価格!しかも使い心地もしっとりしています。
どちらも、とても気持ちいい石鹸ですので、是非お風呂タイムに使ってみてくださいね♪♪(店長古山久美子)
さて,以下は、一昨日から始まった古山拓の「子規と歩いた宮城」第2回連載を転載します。上野を発った子規は、白河で汽車を降り福島を歩いたあと、ふたたび桑折で汽車に乗り、岩沼駅で下車します。(話はそれますが、この原稿を打ち込んだ日時は、2011年3月10日。翌日震災が来るなんて思ってもいなかった…。)
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『子規と歩いた宮城』第2回 岩沼愛島・道祖神社
われは唯 旅すゞしかれと 祈るなり 子規
子規の旅の目的は、奥の細道へ歌枕の地を訪ねることだった。時は明治、芭蕉のころから時代は変わり、みちのく路へは文明の最先端技術=鉄路が延びていた。
明治二六年七月一九日、彼は上野から汽車で一路東北を目指す。栃木、福島沿線上で歌詠みしつつ六泊。二七日、桑折から宮城へと入る。
彼が宮城で最初に踏みしめた地は岩沼だ。歌人実方中将の墓を詣でたいがための下車だった。駅に降り立った子規は徒歩で中将の墓へと向かう。そして途中、中将が落命した場所に立ち寄っている。愛島(名取市)の道祖神社だ。
地図を見ながら神社を探した。それは杉木立の中に静かに建っていた。子規の句をつぶやきながら境内を歩く。けれど描く気持ちと目の前の風景が一致しない。仕方なく引き返すと隠れるような参道に気がついた。先に古道然とした道が続いている。
辺りには子規の面影が浮かび上がるような雰囲気が漂っていた。気持ちがさざめき、道を踏みしめ振り返った。目線上に建つ道祖神社に鉛筆が走った。
絵と文/古山拓
岩沼・道祖神社
今日、正岡子規のテレビ番組をやっていました。子規は34歳の若さでこの世を去りましたが、番組は、猛烈な痛みを伴う脊椎カリエスとその症状を現代医学から検証した内容でした。
私は10年近く前、正岡子規の東北旅を綴った「はて知らずの記」を読み、可能な限り忠実に正岡子規の歩いた旅ルートを辿りました。
彼がみちのく路を歩いたのは、明治26年、26歳の時です。すでに吐血した後で、それでも子規は、ひたすら歩きました。
子規が様々なことを細かく文で残したことはよく知られるところです。みちのく一人旅の時も、彼は道筋から地名まで、こと細かく文章に残しています。120年後、だから私は子規の句を歌枕に辿ることができました。
子規のことを思うと、あらためて表現者として「残す」ことの大切さを痛感します。人が残したものは、必ずや後世、響いた誰かが引き継ぐんです。
わたしは、河北新報夕刊に月二回、絵とエッセイで連載した内容を一冊の画文集として残しました。
丸善仙台出版センター=自費出版を請け負う出版社から出した「子規と歩いた宮城」でした。
新聞連載時、諸事情で宮城限定となったのが心残りで、後日時間を見つけては、一年がかりで子規の東北旅ルートを全て辿りました。いつの日か、完全版「子規と歩いた東北」を出したいものです。
今日、昼、イラストレーターの大先輩、村上かつみさんがアルティオヘ立ち寄ってくれました。尊敬する作家のひとりです。年齢も一回り以上、上です。が、私と村上さんには一つの共通点があります。表現の根っこに文学という根を持っているということ。村上さんと話したあと、夜、テレビから流れてきた正岡子規。
自分のよって立つ柱の一つはやっぱり文学がなんだな、…と、つい、自分の書いた本を開いていました。
なので、1ページ目をここにアップします。ちなみに絵を描き、原稿を書いた日は2011年2月28日。震災前に連載の依頼があり、はじまったのは震災の影響で、たしか5月だった…と記憶しています。
震災を引きずっての取材と連載でした。ことしも3月11日まであと少しとなりました。数日置きに新聞連載の原稿をアップしていきたいと思います。
生きることは旅することなんだな。
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『子規と歩いた宮城』第一回 東京・根岸
〜みちのくへ 涼みに行くや 下駄はいて〜 子規
「旅に出よう。」
その感覚は人の心の根っこにひそむ独特の感情の一つだと思う。きっかけの大方は、何かの節目だ。
心をチェンジする時や、学びを得ようとする時、はては大きく前に進む決意を持った時など、言い換えれば強い意志で未来を変えようという意思が、人を旅に誘うのだろう。私自身、絵を描くよりどころの一つに旅がある。もちろん新しいインプットを求めてだ。
俳人正岡子規が、明治二六年、東北を旅していたという事実を知ったのは、二〇〇九年のことだ。彼の歌詠み旅日記は「はて知らずの記」として新聞日本に連載された。
彼は何を東北に見たのだろう?「はて知らずの記」を歌枕に、子規の影を宮城に追ってみよう。そう思った時、私の新しい旅が始まった。
子規が東北に出発した場所は、東京の根岸だ。最寄り駅の鴬谷駅に降り立ち、旅立ちの場所をようやく探し当て振り返った。と、数軒先に、子規の句を辿る旅人と「子規庵」が見えた。
文と絵 古山拓
東京根岸・子規庵界隈