#古山拓
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#東北水彩風景 「母国遥望」岩手八幡平
#東北水彩風景 仙台東照宮素描
初めてギャラリーで人様に見ていただいた絵って、どんなのだったろう?と、過去の絵のデータをひっくり返してみました。
1997年、初めての個展に展示した絵がそれです。今日のアップは、超過去絵、嗚呼、恥ずかしや。
当時、個展というものは、名のある芸術家がするものとばかり思っていました。海外旅スケッチがひょんな縁でギャラリーオーナーの目にとまり、「会場貸すから額に入れて展示しなよ」
ただそんな流れでの初個展でした。知らないとは怖いものです。。。
アップした水彩画…というか、ドローイングが、いい絵なのか、出来が悪いのか、いまもってわかりません。
ただ、結果、個展を二回三回と続けることになり、20年経ち、今に至ります。絵は他人様の目に触れて変わって行くのだと思います。わたしのスタートの絵と行ってもいいかもしれません。
今日、アルティオ教室展が終わりました。これから教室に通われている皆さんの絵がつまづいたり、立ち止まったりしながら、少しずつ変わって行くのだろうなと思うと楽しみです。
なにごとも、「ジグザグ進行スイッチバック進行ウェルカム」でやっていきたいです。
トップ絵はイギリスインターシティの中で描いたドローイングに軽く着彩。路地の絵は、イギリスコーンウォールのモーゼルという港町の路地です。
気に入って売らずにいた絵ですが、2011年の震災ではじっこが破れてしまいました。
お世話になっているお客様Hさんが、有り難くもお得意様Sさんへ私の作品を紹介くださいました。そのことがきっかけでオーダーをいただき、福島県川俣町へ取材で行ってきました。
転居することになったのを機に、今住んでいる家から見える風景を、水彩画として描き残してほしい、とのオーダーでの取材でした。もちろんそのお得意様Sさんと私が会うのははじめてです。
紹介くださったHさんの運転するクルマで、お得意様の家へ。着くと紅葉が見事。
「暮らしの思い出」を水彩画で残す。それはただ風景水彩画を描くことではないんですね。思い出を共有して描くのです。HさんとSさん、そして娘さんと会話を交わしつつの半日は、私もわずかですが「Sさんの思い出」の仲間入りすることができました
* * *
思い出は様々なかたちで蘇ります。
今朝、窓を開けたときに吸った空気は、一瞬かつて旅したイギリスのスターリングという町で泊まった旅籠の朝を思い出させました。そしてスターリングで描いた絵を見ました。すると忘れていたスターリングでの思い出が次から次へと心に浮かんできました。
空気から蘇る思い出もあれば、水彩画が呼び起こす記憶もあるのですね。
絵を描く仕事で人様の思い出に関われること。その有り難さに感謝しています。
(絵はスターリングの旅籠から描いた一枚です。夫婦がホストでしたがレンタカーのバッテリー上がりで焦った私を笑顔でサポートしてくれたり、とても素敵なオーナー夫妻でした。紅葉の写真は川俣町常泉寺から見た紅葉です。)
東北水彩画 「晩秋陽光」 大石田付近・山形
東北水彩画 有壁にて 宮城・有壁
広島原爆ドーム=宮島=錦帯橋=竹橋=尾道=大久野島=鞆の浦……10月27日から11月1日まで5泊6日、妻と2人で広島方面に旅してきました。広島は人生二度目の旅になります。一回目は30年前1988年。新婚旅行で山陽に旅した時に尾道を訪ねています。
奇しくも今日11月3日は結婚三十周年の日。
今日から何回かに分けて旅日記を綴ります。
◆広島の旅一日目/10月27日-広島・原爆ドーム~平和記念公園◆
今回のきっかけのひとつは、原爆ドームを訪ねることにありました。今までポーランドのオシュフェンチム(アウシュビッツ)やベルリンの壁を訪ねたことがあります。歴史的負の遺産は言葉をもぎとりました。しかしヒロシマはまだ見ていなかった。
初めてリアルに向き合った原爆ドームは、言葉をもぎ取るだけではありませんでした。写真では何度も見て、テレビ映像でも毎年流れて知ったつもりになっていましたが、目の前に立つ、くずおれかけた遺産は、自分に「様々なことを話しかけて」きました。
「ほう、描くんだな?いいよ、でもな、描くならただ描くのはやめてくれ。オレは休みたいんだ。けどな、一瞬で消え去った数えきれない命の支えでなんとか起きて立ってんだ。上っ面だけ描くならスケッチブックをしまってくれ。」
…鞄からクロッキーブックを引っ張り出す時、そんな声が聞こえたのは、決して気のせいではなかったように思えます。
広島に着いた一日は、原爆ドームと平和記念公園で終わりました。5時間ほど、半径数百メートルのところにのみいたことになります。予定では丸木伊里の美術館展示も見たいと思っていましたが、エネルギーが持たなかった。
「原爆ドーム前」の市電の停留所に立つと、ふと目に入ったのは「広島港行き」の文字。思わず同行の妻とこう話していました。
「港まで市電で一本でいけんだなぁ。海、見にいぐが」「んだね、そうしよ」
広島初日の終わりは港を染める夕焼けでした。
人間は遠い昔、海から来ました。心に理解を越えた何かを抱えると海に帰りたくなるのは、本能なのかもしれません。
ヘタなラフスケッチですが、奥歯をギリギリしながら描いた原爆ドームです。どのような絵にするか、今から考えます。
染師 紺屋町にて・盛岡/岩手
仁賀保にて
調べものがあり、過去の個展データを開いていました。ふと一枚の船をさらっと水彩で描いた絵のデータがみつかりました。探し物は別の絵でしたが、この絵も以前からデータを探していた一枚でした。描いたのは2010年。場所は岩手陸前高田。震災前の広田半島です。
さっぱ船と呼ばれる、漁につかわれる細身の木造船です。陸に揚げられている様がリスミカルで思わずスケッチしていました。
1998年以降東北の風景を海辺山間部問わずあちこち時間を見つけては取材しましたが、水彩画に描かれた場所は特級品でした。思わず家に電話して、「宝物のような場所を見つけた!」と妻に伝えたことを覚えています。
目の前は海、背には防潮堤。その向こうにはすぐ民家が建っていました。津波に全て飲み込まれたはずで、今は様変わりしているはずです。懐かしく悲しい記憶の一枚です。
調べたものは、まあ、あまり意味をなさないものでした。この絵のデータを見つけるためのことだったのかもしれません。